多様な比喩表現が光る映画「君の名は。」微ネタバレ感想

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この記事は、主にライトノベル作家になりたい方にむけて映画「君の名は。」を観ようよ、と呼びかける内容です。未見の方におすすめする目的で書いていますが、若干の微ネタバレに踏み込んでいるかもしれません。まったくまっさらな、事前情報ゼロで鑑賞したいと考えている方は映画館に行ってからお読みください。

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さて、四葉ちゃんのお口から直接口噛み酒をちうちう吸い出す記憶を取り戻したい紳士諸兄、こんにちは。
遅まきながら、映画「君の名は。」を観てきました。今回はその感想です。
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「四葉ちゃんの口噛み酒飲みたいなぁ」とか「奥寺さんと結婚したやつが真の主人公」とか本題とちがう雑念がしばしばよぎりましたが、映画はとても面白かったです。こまかいツッコミどころがちらほらあるのもすごく良くて、ついついあれやこれやと語りたくなる魔力をもっている映画だと思いました。その魔力たるやそうとう強くて、ブログに記事をあげてしまいたくなるくらいには語りたい気持ちです。
さて、せっかくライトノベル作家志望者むけのブログですので、そういう視点で書こうと思います。この「君の名は。」という映画は、ライトノベル作家志望者にぜひ観てほしい作品です。ふしぎともう一回観たいと思ってしまうリピート誘発の力も感じられます。売れるコンテンツを作りたい、ウケる表現をこころざす方にはスクリーンから持ち帰れるものがあるはずです。では、どういうところがライトノベル作家志望者に効くのか? 比喩表現の多様さ、うまさです。ライトノベル編集者が「君の名は。」で描かれる多様な比喩表現についてまとめました。

どういう話だった?

 ひとことで言うと、「運命のふたりが、出会う前に再会する物語」でした。
同い年の高校生男女が夢のなかで意識を交換し、スマホの日記を介してたがいの経験を報告しあう。かたや都会のイケメン・瀧(たきくん)で、一方は古い神事の残る山村の巫女の三葉(みつはちゃん)。立場がぜんぜん違うふたりが間接的に経験を共有しながら、たがいの存在をかけがえのないものとしてとらえだし、遠く離れていながら絆をはぐくんでいく、というのが基本的なストーリーです。
ところが、この物語はここまでが序章の序章なのでした。
ていねいに張られたいくつかの伏線がだんだんと効果を発揮しはじめ、1200年周期の珍しく、美しく、幻想的な天文ショー『ティアマト彗星の地球最接近』を最初のピークに、物語は二転三転、まったく様相を変えていきます。入れ替わりラブコメかと思っていたら、衝撃的な展開でもっとすごい本編が始まっちゃう、というインパクト! もちろん観ていたものが一変するのは、観客だけではありません。ふたりの景色もがらっと変わり、出会うはずのなかったふたりがなんとかしてコンタクトをとろうと奮闘するのです。結果、彼らは事実上まだ出会ってもいないはずなのに、絶対に出会わなければならない必然性にとらわれる。出会いたい。なのに出会えない。でも!そして、やがて――……!! 通常、序盤に描かれるはずの『出会い』に、最大のクライマックスをぶつけるというダイナミックな構成がユニークで面白いと感じさせます。

小道具にメッセージを込める、比喩表現の多様さ

 「君の名は。」には、作中で何度も何度もくりかえし映し出されるキーアイテムがあります。
ひとつの小道具を多角的に解釈して、さまざまなメッセージを込めるという手法がとられており、素直に勉強になります。手をかえ品をかえ、豊富な比喩表現をみせてくれるのです。ライトノベル作家志望者にとって創作の刺激になる映画だといえます。キーアイテムには、たとえばこのようなものがあります。

その一。組紐(くみひも)

作品の半分の舞台となる、糸守町。ふるい神事がうけつがれている田舎町で、ヒロインの三葉が生まれ育った場所です。三葉はここの神社に生まれた女の子で、代々の神事をつかさどる役目をもった巫女さんでもあります。そんな三葉には季節の神事にあわせて、伝統工芸の組紐を編むという仕事があります。この組紐が、作中でいろいろな場面で登場しては、そのときどきによって様々に役割を変える、送り手のメッセンジャーみたいなモチーフになっています。
基本的には三葉の髪を結う『髪飾り』として登場する組紐。この同じ一本の組紐が、あるシーンでは『ブレスレット』として描かれ、またあるシーンでは感情を託す『バトン』として描かれ、そのまたあるシーンでは代々の血脈をつなぐ『へその緒』として描かれ、さらには『時間の流れ』そのものとして描かれていきます。彗星の尾もまた、よりあつまっては紐解かれ、ふたつに分かれて線をひいていく『駄目だった組紐』としての比喩を託されているかもしれません。

 その二。手のひらの文字

身体を入れ替えている間の記憶がないため、正体不明の入れ替わり相手に名前を伝えようととられた手段が、身体の一部にペンで直接書いてしまうという方法でした。これは物語の前半と後半で登場しますが、それぞれ違う意味をもっています。前半が単なる連絡手段であったのに対し、後半においては、物語最大の課題を解決するための最重要アイテムにまで昇格します。どうして瀧の手に、横線一本が引かれているのか。どうして三葉はあの時立ちあがれたのか。手のひらに握っていたものは、想いそのもの。いま必要なものは名前じゃない。ただその想いさえあればいい。映画のタイトルに背くような展開なのに、ここは数ある感動ポイントのなかでも高得点のシーンでした。

 その三。忘却

忘却というモチーフも、作品全体をつらぬく重要な要素でした。序盤における忘却は、観客と作品世界の常識をつなぐための装置です。夢で見たことなのだから思い出せなくて当たり前だよね、という一般的な共感をもたらします。ところが中盤に、デジタルに保存されていたはずのデータさえなぜか失われていく。ふいに、忘却が暴力的に襲いかかってくる。この瞬間の、非日常感の演出はゾクゾクしましたね。
そして本作が描いているもうひとつの忘却。三葉との「断絶」が起こってからの後半、瀧が建築スケッチに没頭するくだりでも忘却が描かれています。イギリス児童文学のなかでもファンの多い名作「たのしい川べ」にもよく似たモチーフがありました。

第七章「あかつきのパン笛」。主人公の川ネズミとモグラが、川辺で自然のなかで生きものを見守るパン神に遭遇する話です。あまりの神々しい体験に、いままでの幸せも、これからの喜びも、すべてが色あせてしまうかもしれないと怖れをいだくモグラたち。価値観をゆさぶり、記憶に刻みこまれてしまうほどの強烈な幸福は、恐怖ですらあるという皮肉が描かれています。ところがパン神はこう言うのです。「喜びをなやみに変えぬよう、わたしを忘れよ」神は、モグラたちの明日からの喜びを奪わぬために、神と出会ったことを忘れさせてくれました。めでたしめでたし。
このシーンが示唆していることは、忘却の神秘性です。瀧がどうして熱にうかされたようにスケッチに没頭したのか。瀧がどうして糸守町の歴史に執着をみせたのか。過ぎ去ったあと、その時のことをふりかえっても自分では説明ができない。そんな、衝動的な情熱、没頭。あるいはどうしていまライトノベルを書きたいのか。ライトノベルを書きたくて書きたくてたまらないのか。もしかしたらそれは、非現実との出会いを「忘却」しているからしれません。忘れているだけで、本当は神に出会っている。それでも日々には喜びがあり、幸せがあり、喪失を忘れたまま進んでいける。はっきりと思いだせないのに、なぜか「誰かと出会い、失って、また巡り会いたいと願っている、そんな感覚だけが残る」のは、ふるい児童文学でも用いられた不変のモチーフなのです。料理のしかたによって、児童文学の牧歌的で詩情を感じさせるやさしいストーリーにもなりますし、60万人の観客を動員する大ヒット映画になったりもします。谷川流にかかればキョンに長門有希との約束を15497回忘れさせることでエンドレスエイトという革新的なアイデアが提出されたりもします。さて、次はどうやって味付けしましょうか?

 繰り返し観たくなる「君の名は。」

 ライトノベル編集者が比喩表現に焦点をあてて「君の名は。」を語ってみました。まだ一回観ただけなので記憶違いがあるかもしれません、あしからず。でも面白い映画でした。もう二回は観にいくと思います。あと予告編でやっていた「怒り」という映画もすさまじく観たい。興味がそそられます。映画が豊作で嬉しいです。

新海誠監督みずからの手による原作小説「君の名は。」

スニーカー文庫より、別視点からの物語

月刊MdN最新号は「君の名は。」特集

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